なんか、まあ。

徒然なる駄文。ただの自己満足。

書くことは大切ってはなし。

先日、中学時代の友人が死んだ。突然だった。
何かのドッキリではないのか?というのが、真っ先に思ったことであった。

というのも、今年の一月に高校二年生の時振りに会うことになり、吉祥寺で酒を酌み交わしたばかりだった。
とても楽しい時間を過ごし、なんでこの四〜五年間会わなかったんだろうね、なんて笑い合っていたばかりだった。
私がこの春から新生活だったため、生活が落ち着いたら新居に来てね、なんて話をしていたばかりだった。
会わなかった空白の時間を埋めるように、歯車が動き始めた、なんてクサいドラマみたいなことを思っていた矢先だった。

私は、個人的に中学にはあまりいい思い出がなく、友達も片手に収まるほどでとても少ない。彼女は数少ない友人の一人であった。
彼女に助けられたことは数多く、彼女がいたから中学時代を生きながらえた…と言っても過言ではない。
長い目で見れば、彼女がいたから今の私がいるのだ。
惜しい人を亡くしてしまった。

彼女に最期の別れをするために、私は急遽帰省した。
彼女の死に顔は、今にも起きるんじゃないか、というほど綺麗であった。


「故人を思い出すことは、故人にとって一番の供養である。」なんて言葉をどこかで聞いたことがある。
そんなわけで、彼女との思い出を振り返ろうと、実家で彼女からの手紙などを探してみた。しかしこれが、なかなか見つからないのである。中学時代の思い出など、もう記憶がすっかり抜け落ちてしまっているため、思い出の品がないと思い出すことができない。
そこで、今年久しぶりに会ったことを思い出そうとするのだが、酒が入ってたからなのか、私の記憶力が極端に悪いからなのか、何の話をしてたのかなど、詳細なことが全く思い出せないのである。

また、運よく見つかった彼女からのメッセージの文面に「親友」という言葉が多く見受けられたのだが、私は「親友」として役目を果たせていたのだろうか。確かに仲は良かった。しかし、「親友」という間柄にしては、前述したように、私の頭には彼女との記憶が想像以上に残っていないのである。
不甲斐なさで胸がいっぱいになった。
まぁ、中学生や高校生の「ニコイチ」や「親友」などの言葉の薄さは、コンドームよりも薄いと言ってしまえばそれで終わりなのだが。

私は、実家を探索して見つかった一枚の年賀状と、数枚の落書き、一緒に撮ったプリクラ、また卒業アルバムに書かれていたメッセージ、そして再会した時に撮った一枚の写真を見ながら、頭に残されている記憶の断片を寄せ集め、彼女を思い出し、泣いた。


現代では、LINEやSNSなどで「書く」という行為が便利になったが、それらはボタンひとつで消えてしまう。
実際に、彼女とのLINEは、私が機種変更をしていたため消えてしまっていたし、彼女のTwitterは既に消されており、このようなコンテンツから彼女の面影を探すことは不可能であった。

だからと言って、手で書いたものもゴミ箱に入れてしまえば、簡単に消えてしまうのだが。
しかし、手で書いたものというのは、「その人が存在していた」という温もりがあるというか。
よく、椅子に座る時、前に座っていた人の温もりでおしりのところが温かいことがあるが、あれと同じような感じだと私は思う。

彼女の死は、良くも悪くも私がブログを始めてみようというきっかけになった。やはり、なんらかの形で残すことによって思い出す行為が容易になることが、一番の利点だと思う。
勿論、上記で「手書きはいいぞ〜」と述べているため、この頃多忙にてサボっていた手記も再開するつもりである。

それにしても、人生は何があるかわからない。
この頃、明日は我が身という言葉が痛いほど沁みる。


追記
手紙のやり取りは結構していたはずなのですが、落書きのようなもの数枚しか見つからなかったため、書くことと同時に掃除も大切だと思いましたまる。